「表出する」ということと「存在する」ということはまた別物なのだから

 

 『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』という本を夏休みに読んだ。なかなかおもしろく読めた。

今は学級文庫に置いており、毎朝誰かが手にとって読んでいる。感想など聞けるとうれしいのだが。

 

タイトルにある言葉はそのままこの本のなかに出てきている。

 

いろんなことに関連させてこの言葉について言えたりするのだろうけど、僕は教育現場で働くものなので、そこと結び付けてこの言葉を理解しようとしている。

 

 

ひとつはいじめだ。いじめは表出してはじめて、いじめとなるわけではない。いじめとして見えないところで存在していたりする。

我々は、存在しているものについてすべて認識できるわけではない。存在と認識は別物だと、僕は思っている。そのものが存在することと、そのものを認識することは別の話だ。たぶんそうだろう。大学の哲学の授業でもこんなことをやった気がする。

 

もちろん、いじめはあってはならないことだ。ただ、ありうるものだ。

もしかしたら、いじめは表出していないだけであって、存在するかもしれない。そのことを常に考えなくてはならない。よく言えば、表出したらラッキーなのかもしれない。気づけない存在としてずっとあるよりも、気付ける表出。そんなことを考える。

認識できるものとして、表出していても気づかない場合もあるかもしれない。そんなこと決してあってはならないが。

 

問題が教員の見えないところでひそかに存在している。それはまだ表出し認識できる状態にない。気づいていないだけなのだ。そういう気持ちを少しでも持てればと思う。いやー怖い。

 

 

 

もう一つは生徒の持つ力だ。力はたしかに存在しているが、表出していなかったりする。教員は生徒が持つ存在としての力を表出する力に変えてあげなくてはならないと思う。

 

僕はいつも生徒の持つ力に驚かされる。こういう力があったんだと驚き、うれしくなる。力を引き出したい。

生徒は自分に存在する力に気づいていないだけかもしれない。それを認識できる状態として表出させてあげたい。

 

でも、僕はそれを教員が力づくでなんとかして表出させるのではなく、できるだけ生徒自身が気づき、生徒自身が自ら表出してくれたらなぁと思う。もちろん、そのために教員はできる限りのサポートをしなければならないと思う。

 

力は持っているだけでもいいなとも思う。いつか役に立つから。きっと。存在としての力だけでも、ものすごく強いと思う。それをちゃんとした場面でちゃんと表出できたらかっこいいなぁ。なんか身が引き締まる。力を蓄えよう。

 

 

まぁここまでいろんなことを書いたが、言葉だけ、こうつらつらと並べてもどうしようもないことだ。

存在を表出に、言葉を行動にしなければならないのだ。