自分で自分を鏡にうつせるか

 怒っている相手には鏡を見せれば良い。

 

怒っている人に怒りで対抗しても、それは無駄だと思う。売られた喧嘩を買ってもあまりいいことはない。

 

「その人の怒りを鎮めるには、その人に鏡を見せることだ。」

これは以下の本に書いてあったことだ。

 

怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)

怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)

 

 

怒っている人は鏡を見ると怒りがおさまるのだという。

確かにそうかもしれない。怒っている相手が鏡にうつった自分になるわけであるから、それは確かに怒りが静まるのかもしれない。

 

ただ、怒っている人に鏡を見せることはそんなに簡単ではないだろう。怒っている人の前に鏡を出すことで怒りを鎮めることはかなり難しいことだと思う。

 

では、どうするか。この怒りは無駄なことだと自分で自分にわからせることだ。鏡を見せるのもそういう目的があるだろう。鏡を持ち出さずとも、自分で自分の姿を思い描いたり、想像することができるかどうか。

 

怒っても無駄である。その感情を出すべきではない。怒りをあらわにすることに意味はないのだと、わからせることが大事だと思う。自分でわかることが大事だと思う。

 

 

ただ、それをどうわからせるか。どうわかるのか。

それは難しい問題だ。口で言ってわかるものでもない。怒っていない時に、冷静な時に、言いきかすのもいいかもしれない。

 

それを怒っている時に思い出したり、怒りのピークの時に反省的な思考にいたることができるのかといえば疑問が残るのではあるが。

 

 

 

怒っている時に、自分で鏡を持ち出せるかということはすごく重要なことだ。

自分で自分がしていることを客観視できるかどうか。

 主観的ではなく、客観的に自分を見つめることができるかどうか。

 

 

悪いことをする人に悪いことで返す。「目には目を、歯には歯を」という言葉もある。

 

 

現実問題、やり返すことが決して良い方向に向くわけではない。怒りに怒りでこたえてもうまくはいかないだろう。

 

本には以下のようなことも書いていた。

 

仕返しをして分からせるのではなく、ただ自分の行動を鏡によって見ることが大切だ。自分の悪いことは他人の力ではなく、自分で受けられるようにする。そのために鏡が必要。 

 

 

自分の悪いことは他人の力ではなく、自分で受けられるようにする。この言葉にすごく感銘を受けた。

 

悪いことをした者は、他人によって罰を受けたりすることはあるが、自分で自分に罰を与えることはあまりない。犯罪を犯した人も、裁判で他人によって罰が決まったりする。

自分で自分を律することのできる、自分で自分に罰を与えることのできる人は強い。

 

悪いことだとわかっていても、それがなかなか悪いことだと自覚できないこともある。

 

自分で自分に罰を与える。自分で悪いことを引き受けるというのは、すごく難しいし、なかなかできることじゃない。

 

 

 オナニーをする。終わった時に、あれ俺何やってんだろという気持ちになる。

 

怒る。怒りがおさまった時に、俺何やってたんだろという気持ちになる。

 

オナニーと一緒だ。オナニーにも鏡。怒りにも鏡。

 

まぁオナニーはそんなに悪いことではないと思うのだが。

 

 

オナニーも怒りもその自分の姿を鏡にうつせば、自然とそういう気持ちがおさまっていくのではないか。

 

 

 

僕の机の横には鏡がある。全身がちゃんとうつる鏡だ。

それを見て今日も真面目に勉強しようと思うのだ。体力を無駄なことに使わないように、と思うのだ。

 

みんな自分を客観視できるような鏡を持ち歩いていたりするのだろうか。

 

いざという時、ふとした時に、鏡を持ち出して自分を客観視したりしているのだろうか。

そういうことができているようなものなのだろうか。

 

怒ることも悪いことをするのもそうだし、どんなことでも、夢中になり没頭すると鏡の自分はいなくなる。

 

鏡をうまく使いこなせる人でありたい。どこやかしこで鏡が必要なわけではない。

鏡が必要ない時だって案外あるからね。