世界はこんなに素晴らしい

大学生。毎日更新。

ラ・ラ・ランド見て泣かないやつは恋愛経験ないだと?と言ってる奴は大体そうじゃない側

カップルに挟まれて、ラ・ラ・ランドを映画館で観てきた。なかなか修羅場である。

 

この映画カップルで観るものか?と何度か観たことのある僕は思うわけであるが、始まる前からいろいろ話して盛り上がっている。これずっと観たかったんだよね、とか。

 

そんなことをよそ目に、僕はツイッターを眺めている。僕はひとりだ。

 

ポップコーンの音が気になる。左隣のカップルは口を開けてポップコーンを食べているようだ。始まってからもそれは変わらなかった。

 

爆音上映ということで、非常に音質がいい。全ての音が心地よく聞こえる。人の声も音楽も。クラクションや警報音はちょっとうるさく感じたけど。

 

やっぱりこの映画は最初が一番興奮して、最初で感情の高ぶりを最大限のとこまで引き上げてくれる。

高速道路で渋滞中、音楽に合わせて踊る。身体が少しノってくる。僕はこのノリに混じって一緒に踊りたいというわけではないけど、こうやって映画館で眺めているのがいい。

 

展開がわかっているぶん、楽しみは減るかっていうと、そんなことはほとんどない。十分楽しめる。

 

終盤の回想シーンに入って、左隣から鼻水のすする音が結構聞こえてきた。なんだ、泣いてるじゃないか。ポップコーン女性の隣で彼氏と思われる人が泣いてるじゃないか。

 

いいぞ、もっと泣け。(なつぞらナレーション風)

 

 

正直なところ、僕はこの映画を観て泣くことはなかった。それは一番最初に見たときもそうだ。一番最初のシーンで感動して少しうるっとしたことはあったけれど、最後のシーンで涙を流すことはなかった。

 

 この映画みて泣かないやつは、恋愛経験がないとかそんなことはないよな?

女性の前で映画を観て涙を流すなんてカッコ悪いよな?

 

でも、俺は思った。俺はひとりだと。恋愛経験がない、と。涙を流せない人間である、と。

タイトルにもあるが、こういうことを言うのは、決まって弱者側だ。恋愛経験がない側だ。そうじゃない側はそうである側を否定しがちだ。

 

やる側はやらない側を、なんら否定することはできない。

 

 

愚痴や否定をするのはいつだって下の人間だ。

 

下の人間は上を見てぐちぐち愚痴を言うのはやめて、歯向かったりせず、ひたすら努力しようぜ。そうありたいものだ。

 

いやー、ラ・ラ・ランド最高でしたね

美味いかどうかは食べてみないとわからない

なぜかずっと下書きに残してあった記事である。少し加筆・訂正した。

 

作ろうと思ってなかなか作れず、ずっと先延ばしにしていたことが原因だ。本当は作って感想まで書くつもりであったが、いまだに作ることができていない。でも、感想はまた別の記事に先送るということで。

 

 

ボランティアの尾畠さんが一時期話題になった。

どれくらい前のことだったか忘れてしまったが、尾畠さんが出ていたテレビ番組を見ていた。確か「情熱大陸」だっただろうと思う。

これまでの活動のこと、現在の活動のことが取り上げられていた。震災や大雨の被害にあった地域のボランティアを継続的にしている様子に密着していた。

僕もとても少ないが、今までボランティアをしたことがある。尾畠さんの姿勢はまっすぐ筋が通っており、見ていてカッコよかった。自分の限りあるボランティアの経験に照らし合わせてみたりした。

 

 

その番組は色々ととても感銘を受けたりしたのだが、一番衝撃だったのは尾畠さんが食べていたものだ。家で食べていた食事が、僕には衝撃だった。思わず笑ってしまった。

ご飯とインスタントラーメンを一緒くたに鍋にかけ、だいたい煮詰まったらそこに焼肉のたれを入れたもの。おじやなるものと言っていたが、見たときはなんだこの食べ物は?と思った。でも、なんかうまそうだ。「尾畠さん 情熱大陸 インスタントラーメン」なんかで検索するといくつか画像が出てくる。

 

これ、すぐできそうだから、いつかやろうと思っていたのだが、なかなかやらずにどんどん時が過ぎていった。今でもまだできていない。今後またこれを実際に作ってみたときには、ブログに書こうかと思う。

また少しづつ書きます

やっている人に対して、やっていない人はどうこう口を出せない。

 

4月1日、今日からまたブログを再開します。

 

ひとまず、今日のところはそのお知らせだけでも。毎日更新はできるかわからないが、やるかやらないかという選択において、やる側でありたいと思う。

 

やる勇気をもつ人間でありたいと思う。

 

くそったれた下手くそな文章をうまくさせるには、書いて書いて書きまくるしかない。なんどもなんども書き直すしかない。

 

まぁ、ぼちぼちやりますよ。

さて、明日は何を書きましょうか。

ブログ活動休止

少しの間、それがどのくらいかわからないけど、ブログの更新を一旦止める。

 

いろいろと考えてのことだ。

 

またいつか再開するかもしれない。それはわからない。

もう戻ってこないかもしれない。それはわからない。

 

ちょっとの間、ブログから離れてみる。

 

進歩のない自分、進歩のないブログ。いろいろなものに自分の心は弱ってきている。

 

書かなければいけないから書いている。本当にそうなってしまっている。その書かなければいけないという状況はある意味では重要で、そういう縛りを作るからこそ、また、作らないと書けないというのもある。

ただ、そういう状況はかなりきついところがある。

毎日ほぼ日を更新している糸井重里さんという人は多分そういうのはないのだろう。書かなければいけないという気持ちがもう。

 

また書きたくなったら書こうと思う。もしかしたらもう書こうと思わないかもしれない。書くことはなかなかしんどいから。

 

それでも、戻ってきてまた書き始めたらそれはそれでいい。書きたくなってその気持ちが抑えられなくなったのだろう。

 

何かを自分の中に取り込むために、何かを捨ててみる。自分の持ち物から何かを捨てて新たな何かを得る。その隙間を作る。僕は新たな目標に向かって歩き出している。

 

 

いったん離れること。自分を縛り付けていたもの(縛り付けていると思っているもの)から自分を解くと、どうなるのか。

 

何かを捨てたからには、何かを得る。ブログからいったん離れてみます。

おかゆと思い込みの話

おかゆが食べたい。そうラインで告げられた僕は、「体調大丈夫?」と送った。風邪でもひいた?、と。

 

昨日は1月7日ということをてっきり忘れていた。今日が何日で何曜日かが曖昧になってきている。

 

手帳は買っているのだが、見ていない。そもそも予定なんて書いていないので見る必要がない。バイトに行き、家に帰り、寝て、またバイトへ。そんな生活を続けていたら、いろんな感覚を失った。年末に掃除をした部屋もまた少しづつ汚れていく。

 

1月7日におかゆを食べるというのを、もう何年もやっていない。

 

僕が結局気づいたのはそのラインが終わった時だった。向こうも七草がゆというワードを出さずにおかゆが食べたいとだけ言ってきた。気づかなかった。

 

結局昨日は吉野家の牛丼を食べた。

 

おかゆが食べたいという言葉から、体調が悪いのではないか?と想像するのはどうなのか。勝手な思い込みに過ぎない。

健康なときだっておかゆを食べる。なにも体調が悪いからおかゆを食べるわけではない。

 

思い込みは怖いし、おかゆは食べたい。

パソコンの前では指は面白いように動くのに、スマホの前では

僕はいつもブログを自分のノートパソコンで書いている。

スマホでは書かない。添削などをスマホですることはたまにあるけど、一からスマホで書くことはない。添削だって本当はして、なんども書き直しをしたほうがいいのだろうけど、それだけの時間が取れていない。毎日毎日その日に投稿するのを一生懸命時間を作ってその日に書いている。

 

僕はブログの記事のネタをメモすることはある。スマホにメモしたものを見て、パソコンで記事を打ち始める。

 

スマホで打つ文とパソコンで打つ文とではたぶん文が変わってくるのではないかと思う。同じ人物が打っていても、それが同じ内容だとしても文体というものが変わってくるのではないかと思う。

 

パソコンとスマホでは画面の大きさが違うから見え方も違う。文章を読むときも、スマホとパソコンでは何か違うだろう。

パソコンでは一行がだいたい40文字、スマホではそれが20文字くらいになる。パソコンの画面を見て、パソコンで書いている僕は改行のタイミングとかもパソコンに合わせている。パソコンで画面を見て、だいたい3行か4行か行ったタイミングでよく改行をしていると思う。

パソコンでは3行のところがスマホでは6行になってしまうのだなぁと思う。それは少し読みにくかったり、飽きさせやすかったりするのだろうか。

 

 

僕はパソコンが手放せない。ブログはパソコンのキーボードで打ちたい。スマホはなんか嫌だ。

『ボクたちは大人になれなかった』という作品は去年読めてよかった作品だ。その作品は全てスマホで書いたという。かなりの量の小説と言えるものをスマホで書く人もいるのだと驚いた。あれだけ大量の文章をボクはなんかスマホで打つ気になれない。

スマホだと長い文はかけないのに、パソコンになるとやたらと長い文を書いてしまったりする。手が止まらないことが多い。ネタが決まると一気に書ける。いらないことやいらないことを。

 

 

やっぱりブログを書くにはノートパソコンが欠かせない。どうしてもスマホではブログを書く気にはなれない。

文章を書くときはパソコンの画面の前に座る。そうすると、指が勝手にどんどん動く。スマホの画面の前では指がよく動いてくれない。

ほんはほんとにいいもんだよ、買って眺めることも読むことも、

年末に部屋の片付けをして、その時にごっそり本を売った。30冊ほど。ごっそりってほどでもないか。それでも、あと100冊近くは本棚におさめられていたり、ベッドの下に眠っていたりする。

 

最近意識的にAmazonや本屋に立ち入らないようにしている。どうしても気になる本があって買ってしまうからだ。

 

今年こそはと意気込んで本をなんとか読もうとしているのだが、すぐ違うことをしてしまったりなかなか本と向き合えていない。ほんとはほんをちゃんと読みたいのだ。

 

今本棚に並べられている本たちを見てこれからの楽しみの顔を浮かべている。今年中に全て読みたい。本というのはあふれすぎている。読みたい本が次々に出てくる。

 

図書館に行ってまだ自分はこんなに本が読めるんだと嬉しくなった人もいれば、死ぬまでにまだ読みたい本が山ほどあるのに限られた時間では読めないではないかと絶望する人もいる。

 

僕は希望派でもあり絶望派でもあるかもしれない。

本棚を眺め、希望を持ち、ついて絶望も感じる。

 

僕にとって本を読む作業は苦しいものではない。文字を追うということに苦しみは覚えない。だったら読めるんじゃないのかと思うけど、そうじゃない。苦しくなかったら全てのことが簡単にできてしまうのか。

 

僕は少し甘えている。まだまだこの先長いのだから、この本棚にある作品は全て読めるだろう、と。いや、そんなことどうして言えるのだ。僕は明日で死ぬかもしれない。今はそこに見えて手に触れることができる本も、明日にはそれができないところへ行っているかもしれない。僕は永遠ではない。本は永遠か。いや、それもまた違うが。

 

 

今、乃木坂46高山一実さんの『トラペジウム』を読んでいるところだ。その本を読み終わることを目標にし、次にまた読む本を決め、それが読み終わることを目標に据える。

この小説を読むまでは死ねないとか、この映画を見るまではどんなことがあっても生きるとか。そういうのが生きる意味であってもいいと思う。生きる糧にそれがなればいいと思う。

 

僕はようやくそういう生きる意味や生きる目標を見つけつつある。

 

 

 

雑の中でも下の下のような雑さのブログをいつも読んでくれてありがとうございます。

僕はこのどこやかしこ飛んでいく、「結局何が言いたいねん」と突っ込まれるようなブログを、どこかの誰かが読んでくれていることを本当に嬉しく感じている。それがまた書こうと思えることにつながっている。