世界はこんなに素晴らしい

大学生。毎日更新。

自分にとってのしるし

 

しるしとは、自分にとっての特別なものである。それがあなたを、あなたたらしめているもの。

 

しるしとは、その人にとってあるべきものや必要なもの、価値あるものである。

 

 

映画『ワンダー 君は太陽』では、顔に傷があるオギーという人物が出てくる。オギーは顔に傷があるということで、いじめられたり、嫌な言葉を投げかけられたりする。

 自分の顔を嫌っている。自分の顔を治したいと思っている。

 

だけど、そのいじめにも負けることなく、現実に立ち向かっていく。

 

ここでは、顔の傷がオギーにとってのしるしだ。それはそのオギーにとってかけがえのないものなのだ。

 

 

小説『ヘヴン』では、斜視であることでいじめられる主人公「僕」と服が汚れていたり汚いという理由でいじめられる主人公「コジマ」が出てくる。

 

斜視であることや汚いということがここでいう、しるしだ。

 

 

僕にとってのしるしは、歯がすきっ歯ということが1つにある。

 

この話は、今まで誰にもしたことがない。みんなだいたい僕と話すと、このことに気づいていることなのだろうけど、今まで誰からも一度も何か言われることはなかった。僕がいないどこかでそういう話がされていたことはあったのだろうけど。

 

ここで、僕の上の前歯がすきっ歯であることについて、なんとなく文字として残しておこうと思う。誰も興味なんてないだろう。自分のために自分が書けばいいのだ。

 

 

もし過去の記憶が一切なくなるようなことがあっても、僕がこのブログを読めば、誰に聞かなくとも、いろんなことがわかるだろうと思う。

 

記憶がなくなった時なんて、なかなか想像できないけど、その時のために僕は書いているといえるかもしれない。

 

 

僕はいつから前歯に隙間が出来始めたのか、正直あまりよくわかっていない。ただ、僕はあるきっかけがこういう歯をもたらしたのだろうなという、若干の予想はついている。ただそれだけが原因ではないのかもしれないのだけれど。

 

 

それは確か小学生の時だと思う。

家のテレビでフィギュアスケートの映像を見ていた。

 

妹たちも一緒だったと思う。そこで僕たちは一緒にすべろうということになった。テレビに映るフィギュアスケートの選手みたいに。

テレビの前にはちょうど良いスペースがある。そこで僕たちはすべり始めた。靴下とフローリングは良い具合にすべりを生み出し、フィギュアスケーターのようとまではいかないけど、よくすべった。回転だって少しは出来た。

 

妹たちに負けないようにすべっていた。調子に乗ってたくさん回転もしていた。

その時、僕は思いっきりすべってしまって、床に倒れ込んでしまった。手も床につかずに顔からフローリングの床に落ちた。スケートの選手って手を後ろに回してるじゃない?

 

僕はワンワン泣いた。痛くて、痛くて、泣き続けた。

僕はその時、顔から落ちたというより、歯から落ちた。歯からフローリングに叩きつけられた。歯から落ちるなんてことある?

 

その時、思いっきり歯が打ちつけられたせいで歯がぐらついて、隙間が出来てしまったのではないかと思うのだ。たぶん。

歯が折れなくて本当に良かった。歯が少しずれただけで本当に良かった。

 

今でも実家の床には僕の歯型がくっきりと残っている。それは僕にとって大事なしるしだ。

 

まぁたぶんこれが原因じゃないかと考えていて、今の自分の歯に納得している。自業自得なのだ。自分で自分の歯に隙間を作ったのだ。そう思っている。

 

僕は中学校や高校の時、何度か歯を矯正しようかと考えたこともあった。

隙間が空いてるのはなんか嫌だし、カッコよくはないと思った。

 

だけど、結局直すことなく、今でも僕の前歯には隙間がある。

今では全くと言っていいほど、気にしていない。

 

これは僕にとってのしるしなのだと思っている。

もちろん治していいことはあるかもしれない。矯正してモテるなら矯正しようかな。

でも、前歯の隙間が埋まったからモテるようになるなんて事は考えられないから、してない。

 

しるしは大切に自分の中にとどめておくべきものだ。

誰にだって、しるしがある。様々なしるしを自分の中に持っているだろう。

それはたとえ消せるものであっても、消さない方がいいんじゃないかと思っている。

 

それはかけがえのないものなのだ。

 

僕は、鏡で歯を見るたびに、あの時のことを思い出す。痛さはもう思い出せないけど、あのこけた時の情景が浮かんでくる。

 

すきっ歯は、幸せを呼び寄せるとか、幸せが逃げていくとか、いい意味でも悪い意味でもとらえられている。ネットで調べてみた。

 

僕はもちろん、このすきっ歯で幸せを呼び込んでやるって考えている。幸せを呼び込むすきっ歯なのさ。

人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患う

誰かに自分のことをわかってほしい、理解してほしい、知ってほしい。

 そういう感情になることは多分、あるだろう。

 

新聞配達のアルバイトを始めてからというもの、ほぼ毎日新聞を読み、気になった記事や大事だなと思ったものはスクラップしたりしている。

 

 

以下の、「慈しみの心」という記事は、毎日1面の端に載せられている。様々な短い言葉が毎日載せられている。

 

毎回、なんらかの学びがあって、必ず読む場所になっている。

特に大切にしたいことが書かれていた場合は、切り取ってノートに貼り付けておくのだ。

 


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相手のことをまず知るということ。

 

自分のことを理解してもらいたいという気持ちがある。

だけど、それよりも先に、お前は相手のことをどれだけ知っているというのだ。まずは自分から知る、理解することが大事ではないのか。

 

相手のことを理解せずに、自分のことを理解してもらおうと思っても、それはうまくいかない。

理解するが、理解してほしいに先立つ。

 

 

こういう文章を読むと、あぁ俺ってどれだけ自己中心的なんだよと思う。自分の今までの人間関係を振り返ってそう思うのだ。

自分のことばかりで、誰かに認められてくて、自分のことを理解して欲しくて、それだけのことで躍起になる。

 

自分のことばかりで、誰かに認められたくて、自分の気持ちを理解して欲しくて。

 

そればかりで、相手のこと、自分以外のことに関しては、理解できていなかったり、知らなかったりする。理解しようとしたり、知ろうとする姿勢が持てないことだってある。

 

自分を知って欲しかったら、まずは相手のことを知れ。

相手に理解して欲しかったら、まずは相手のことを理解しろ。

 

もちろん、相手のことを知ったからといって、理解できたからといって、自分が理解されるわけではない。認められるわけではない。

 

むろん、相手のことなんか簡単にはわからないし、理解できるなんて不可能だといえる。

この世にはわからないことや理解できないことがたくさんある。自分のことだってそんなに理解しているわけではないのだから、ましてや自分以外のことなんて簡単に分かりゃしないのだ。

 

それでも、理解できないからといって、理解することを諦めてはいけない。

知ることができないものだからといって、知ることを諦めてはいけない。

 

理解することや知ることには幅がある。完璧に知ることは無理でも、少しでも知ることはできる。もっと知ることはできる。よく理解することができないことはない。思い込みの理解ではダメだけど。

  

理解できないとわかっていても、理解しようとする姿勢をもつ。

自分のことを理解してもらおうと思ったなら、まずはその理解してもらいたい相手をとことん理解する姿勢をもつ。

 

姿勢が大事だ。その姿勢はいい意味でも悪い意味でも、簡単に伝わる。

 

 

知ってほしい、理解してほしいに自己中心的であるのも良くないし、知りたい、理解したいに自己中心的であってはいけないというのも言える。

 

知りたい、理解したいはかなり自己中心的なものだ。特に人と接するときに、それは気をつけなければいけない。

 

映画を観るきっかけはなんだっていい

 

映画を観るきっかけは、もうどんなことでもいいのだ。

映画を観ること自体が、映画好きになるきっかけになっていて、そこで本当に映画好きになってくれたら、もしそうなってくれたら僕はとても嬉しいと思う。

どの目線で僕は言っているんだ?

 

 

僕が映画をよく見るようになり、好きになったのは、なぜか。

実はそれはもう思い出せなくて、というか、そういう好きになったきっかけはもしかしたら明確になかったのかもしれない。

 

大学に入って、夢中で映画を観始めて、映画を観るということにハマっていった。そこで感じること、そこから学ぶこと、そのでかさにのめり込んでいった。ただ観て面白くて、楽しかった。

 

この作品に出会ったから、映画を好きになったみたいなものも、おそらくない。

 

 

映画を観るということにおけるきっかけっていろいろある。あの女優が出ているから観ようとか、原作の漫画が実写化されたから観に行ってみようか、とか。あの人がオススメしているから観てみようか、とか。

 

それは十分な動機になり、映画を観るきっかけになる。

 

もうなんだっていい。

 

そこで映画を観るという行為を通して、その作品を通して、なにかしら得られるものがあるはずだ。

 

また、同じ女優の作品をみてみようとか。この監督の別の作品を観てみようとか。

 

もしくは、このテーマは自分には合わないなとかそういうことも学びとしてわかるかもしれない。

 

僕はこの作品を観ろ、なんてことが言えるほど、映画のことを知らないし、観た作品だって多くない。

 

だけど、映画を観ることの素晴らしさや、映画を観ることは観ないことに比べたら、それはいいよ、と言うことだったら言える。

 

映画を観よう、と僕が言うのはおこがましいかもしれないけど、映画を観るには、どんなきっかけであれ、どんな動機であってもいい、だからこそ観て欲しいと僕は思うのだ。

 

 

最近、アン・ハサウェイのヌードが見れるからという理由だけで、何だかエロそうな映画じゃないか?という理由だけで、『ラブ&ドラッグ』という映画を観た。

 

もちろんその映画におけるアン・ハサウェイの裸体も良かったのだが、そのことを越えるくらいの素晴らしいストーリーに出会えた。

ジャケットで完全にそんな映画じゃないだろうと思っていた。こういう驚きや発見、期待を裏切られたりもするから、映画を観るのをやめられない。

 

 

彼女を家に誘う文句として、「僕の家で映画を観ない?」と言うのがある。僕はそれを何回か言ったことがあり、成功したり失敗したりした。

 

ふたりでレンタルショップでなにを観るか決めるのとかは最高の時間だと思う。あれは、これからの二人の時間を考えている時間だ。

 

ここで自分の好きな映画を熱く語りすぎないのに注意だ。それは確実に嫌われる。

それよりも女性のことを。好きな映画を聞き出してあげたりする。

 

一度自分が観た作品だって、相手がかなり観たがってたら、観てないと言って、観るのだ。二回観たって映画はいいのだから。二回観れることを嬉しく思おう。

 

 

家でふたりで並んで映画を観るって素敵だ。

動機はただ、家に誘うかもしれないけど、その映画がそこで好きになったら、それはとても嬉しいことだ、いい作品に出会えたり、ふたりで笑ったり泣いたりできたら、もう本当にそれは素晴らしいことだ。

 

たとえ、途中で寝ちゃったり、観はじめてすぐベッドに行っちゃったりなんてことがあってもそれはいい。それはそれでまぁいい。

 

で、朝起きて、せっかく借りたし、明日続きを観るかなんて言って観る。すると、そこであぁいい作品だったなんて思ったりする。

 

もうそこに彼女はいなくて、家に帰っている。

また、映画観に来なよ、はもう通じない。

 

 

とにかく、映画を観るきっかけはなんだっていいのだ。

 

ねぇ、誰か僕の家で一緒に映画観ない?

自分を低くみてるのは自分を守るため

自分を低くみることは、本当に、まさに、その自分を低くすることだ。

たとえ、実際の自分が低くなくても、思うだけで低くなったり、低いと口に出せば、もっと低くなることだってある。

 

 

自分を低くみる、そう思うってことは何にもわるいことじゃない。

 

思うのは、その人の勝手だ。

 

思っているだけでは、その人の中にその思っている何かがあるだけで、それが表に出ることはなく、もうどんなことだって、思ってもいいと思っている。

以前読んだ小説に、妄想するのも罪ですか?なんて言葉があったが、妄想するのは罪ではなかろう。妄想は許されているものであろう。

 

なんだって思える。 

 

あの人を殺したい、今すぐ死にたい、悪口言いたい、殴りたい、あの人とエッチしたい、あの人とエッチしたい、エッチしたい、

 

僕たちは、思うことは許されていると言えるだろう。

妄想しただけで、思っただけで、それが直接罪に触れたりすることはない。

 

 

自虐的に自分をおとして、自分の価値を下げて話すことがある。

思うだけでなく、相手に自分は価値のない人間ですよ、と直接伝えることがある。

 

そこにある真意は何だろう。なぜそんなことを言ってしまうのだろう。僕だって言った経験があるし、聞いた経験もある。

 

 

そう言っておけば、傷つかないですむ 。自分を低く見積もることで、自分の存在を守ることができる。

相手に自信のある人だなぁと思われない、期待されない。

 

相手にかわいそうと思ってもらいたい。そんなことないよ、と言ってもらいたい。

励ましてもらいたい。

 

 

自分に低い値段をつけ、自分の価値の低さを相手に伝えることは、そういう真の思いが込められているのだろう。

 

 

自分の価値に自信をもて、と言われてもそれはそれで難しいものかもしれない。

僕はどうしても自分に価値がないと思ってしまうことがある。

 

自分の存在価値を低くとらえてしまうことは少なからず誰にもあることだろう。

 

それは認めるとして、

自分のことを価値の低い人間だと思うだけでなく、それを口に出して相手に伝えることをしていると、本当にそのような人間になってしまうことがある。

 

価値のない人間を演じることになってしまう。

 

口に出し、相手に伝える、声に出すということは、まさにそういう人物なんですよ私は、というのを言っていることになる。

 

なんにせよ、自分を低く見るのは勝手にすればいいが、それを相手にわざわざ伝えて、自分を本当に価値の低い人間にするのはやめたい。やめてほしい。

 

聞くほうが嫌なんだから、自分も言わないように、と気をつける。

 

その言葉を聞くと色々言いたくなるくせに、自分がまさにその言葉を言ってしまっていることがある。

そういうことはよくある。聞きたくないことは言うな。自分が言ってほしくない言葉を、わざわざ言うな。

 

 

 

あと、自分の価値を下げて、自分の値段を下げ、それを表に出して、ついつい自分を守ろうとする人は、人からエネルギーを奪い取る。

 

そういう発言は周りをも巻き込み、沈めていくことがある。

 

本当に強い人というのは、周りをも強くする人だ、という言葉がある。これは確か映画『ちはやふる』で聞いた言葉だったような気がする。

 

本当に話していて楽しかったり、面白かったりするのは、相手にエネルギーを与えられる人だ。

 

相手からエネルギーを奪うような人と話をしたくはないし、自分も相手からエネルギーを無意識に相手から奪ってないか、そういうことを考えて話せればと思う。

 

自分を低く見てしまうのは、単なる努力不足かもしれない。静かに、黙って努力を続けよう。そういう人になろう。そう思う。

自分への価値づけ

 

自分の価値みたいなものを考えることがある。

 

僕にはどんな価値があるのだろう。

 

それはどこかで周りから価値づけされることを、僕自身が望んでいる証拠かもしれない。価値づけされたい。

 

 

映画『横道世之介』で、「あいつに会えたというだけで、僕はあいつに会えてないお前なんかよりよっぽど得した気がするんだよ」というセリフがある。(たしかこんなセリフだった気がする。あいまいだ。)

 

こんなこと思われたい、みたいな気持ちがどこかであるのだ。そういう人物でありたいなと思うのだ。

 

相手に価値ある人物であると思われたい。得したとまでは言わないまでも、あいつとこの人生で出会えてよかったなぁと思われる人でありたいとは思っている。

 

 

でも、自分への価値づけってなんのためにあるのか。

自分に価値づけすることは、相手に思ってもらったり、考えてもらったり、その価値を認めてもらうことが目的なのだろうか。

 

そりゃ相手から認められたり、自分の価値が受け入れられるとうれしい気持ちになる。だけど、それで、ただそれだけでいいのだろうか。

 

自分の幸福のため、自分が生きていくための価値づけでありたいと思う。

 

 相手からの承認のための価値付けじゃなくて、自分のための価値付けでありたいと思う。

結局その自分のための価値付けが、他人からの承認の価値付けに繋がっていくのが、理想なのかなと思ったりする。

 

相手に認められたいがために、価値付けをしていくと、そこに苦しみが生まれてしまうような気がする。

自分を高めるために、自分のために、価値付けをしたい。

 

 

僕は今日も本を読んだり、映画を見たり、勉強をしたりしている。

それはなんのためにやっていることなのか。誰かに認めてもらうために、やっていることなのか。

いや、違うだろう。

 

自分を高めるために、自分が幸せだからやっているのだろう。

自分への価値づけは、自分のためでありたい。常にとは言わないけど、出来るだけそうでありたいと思う。

あいさつを返すのではなくする

あいさつは返すものではなく、するものだ。

 

あいさつをする人でありたい。もちろん、あいさつをされたら返すことは、大事なのだが、あいさつを返す側ではなく、する側、あいさつをあたえる側でありたい。

 

 

僕は一人暮らしだから、朝起きておはようと直接いう人はいない。

また、朝起きたらおはようとラインをするような相手はいないし、また、おはようというラインがくるなんてことはない。

 

最近、あいさつをしていない。おはよう、こんにちは、こんばんはのあいさつを最近していないことに気づく。

 

人と接していないからだ。

 

人と接しないと、あいさつをしなくなる。ラインも友達がいないと、あいさつをすることもない。

 

言葉で発することもないし、文字で打つことや書くこともない。

 

あいさつは自分からするものだ、と教えられてきた。人に会った時にはまず自分からあいさつをしろと言われてきた。

 

だけど、人に会わないし、あいさつをするというタイミングがない。

 

 

明日会った人には、自分からあいさつをしようと思う。 気になるあの人に、おはようとラインでもしてみようかな。そんなの急に、気持ち悪いかな。

ボランティアは結局のところ自己満足でしかないのかもしれない

 

僕は大学でいろんなボランティアに取り組んできた。

 

他の人と比べたことがないから、僕が多いのは少ないのか、そういうことはわからないが、様々なボランティアをしてきたと思う。

 

マラソンのスタッフ、障がいのあるひとへのサポートボランティア、防犯ボランティア、祭りのスタッフ、サッカーの試合のスタッフ、東日本大震災のボランティアなどなど。

 

だいたいここであげたものくらいなので、そこまで多いとは言えないかもしれない。

 

これらはすべて、お金をもらうことなく、募集の紙を見て、自主的に申し込み、おこなった活動である。

自分で申し込み、自分で誰かのために動く。

 

僕はこれらの活動をどういう目的でやっていただろうか。その動機はどんなものだっただろうか。

 

人のため、誰かのために自分も何かしたい、そういう思いがあっていろんなボランティアをやってきたと思う。申し込んできたと思う。

そう思っていた。

 

だけど、これって本当の僕の心だったのだろうか。今になってなんとなく疑っている。もちろんそのときの気持ちは、誰かの満足こそが第一だったかもしれない。

 

 

だけど、真の心には、誰かのために動いているその自分の幸せを求めていたのかもしれない。

結局、自分は自分のことしか考えられないのだ。自分が一番好きだし、自分の幸福を一番に考えるのだ。

ボランティアなんてしていて、すごい。そういうことを思われたいとか。

 

誰かのために何かをしている自分のために、ボランティアをしている。

本当のところは僕はそうだったのだなと、少しばかり思っている。

 

 

自分のためでもそれはそれでいいとは思う。

これまで本当のところでは、自分のためにやってきたボランティアだが、どこかで、それは結果として人のためにはなっているはずだ。

 

自分のためにやっていることが、人のためになったりもするのだ。

それでいいんじゃないの。どういう心をもっていたって、結局人を助けたり、誰かのためになっているのなら、それでいいんじゃないの。

誰かにありがとうと言ってもらえたりしたらそれはもう自分のため以外の良い価値がその行動に生まれてんじゃないの。

 

なにもせずに、自分のためより人のためとか言っているよりは。正直で自分のためにボランティアするのもいいんじゃないの。

 

やっていない人よりは、そのほうが断然いいんじゃないの。

 

 

ただ、自分の満足だけを求めても、それが結果として人のためになることなんて、もしかしたら滅多にないことなのかもしれない。

手を差し伸べ過ぎないことも、とても大事だからね。この辺りが難しかったりするね。何でもかんでもやりゃあいいってもんでもないんだよね、たぶん。